SSブログ
東日本大震災 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

巨大津波、10メートル超の破壊力 陸地側から堤防削る(日経Web)の写し [東日本大震災]

2011/4/17 11:34の記事です。

 東日本大震災で、巨大津波が東北から関東にかけての太平洋側を襲った。高さは10メートルを超え、各地で住宅や鉄道などを破壊し、多くの死者を出した。国土地理院の調査によると、津波によって浸水した面積は500平方キロメートル以上で、東京・山手線の内側の面積の約8倍にも達する。

96958A9C889DE0E4EAEAE3E7E7E2E3E4E2E6E0E2E3E39F88EBE2E2E2-DSXDZO2688156016042011MZ9000-PN1-22.jpg

 岩手県釜石港にある世界最深の防波堤でも防ぎきれなかった。63メートルの海底にある基礎が削られて倒れた。独立行政法人・港湾空港技術研究所の分析によると、防波堤は水面下に残った部分が津波のエネルギーを抑え、約14メートルの高さになるところを8メートル程度に押し下げた

 それでも市街地に大きな被害を出した。同宮古市田老地区では、地元の人たちが「万里の長城」と呼んだ高さ10メートルの巨大な防潮堤を乗り越えた。

 津波は台風や低気圧に伴う高波と違い、海底から海面までの水が巨大な塊となって押し寄せてくる。防波堤にぶつかると跳ね返り、進む波と戻る波が重なって高さは1.5倍にもなる。乗り越えた防波堤を、陸地側から基礎を削って破壊する。防波堤や防潮堤の多くが壊れたのはこのためだ。

 東北地方の太平洋側では、たびたび巨大津波に見舞われてきた。代表例が1896年の明治三陸地震だ。海側の太平洋プレート(岩板)と陸側の北米プレートの境界で発生。津波で1万以上の家屋が全半壊し、死者は約2万2000人。揺れの割に津波が大きく、津波地震というタイプだった。

 今回の地震は揺れも大きく、津波地震とは違う。太平洋プレートに引きずり込まれた北米プレートが元に戻る衝撃で発生した。地震を起こした断層は長さ約500キロメートル、幅約200キロメートルと推定されている。

 関西大学の河田恵昭教授は「震源の深さが20キロメートルのときに津波は大きくなりやすい」と指摘する。今回の震源は約24キロメートルで、危険な深さに近かった。

 東京大学の古村孝志教授が津波のデータからプレート境界で北米プレートが動いた量を計算したところ、最大で55メートルもあった。古村教授は「常識的には考えられない数字で、別のメカニズムがあるのかもしれない」と話す。通説ではマグニチュード(M)9級でもずれは20~30メートル程度とされていた。

 巨大な断層の動きによって大量の水が持ち上がった。水深約5800メートルの海底が約5メートルも上がったというデータがある。上昇した大量の海水は大きなエネルギーを持つうねりとなって広がった。

 津波のエネルギーは深い海では勢いがほとんど衰えない。水深が浅い沿岸に近づくと、高さが急激に増す。岩手県沖や宮城県の沖合10~20キロメートルに設置された全地球測位システム(GPS)波浪計で観測された高さは5~7メートルだった。だが各地の海岸では10メートルを超す高さに達し、陸地に押し寄せてきた。

 高さ1メートルの津波は、厚さ6ミリの鉄板を曲げる。2メートルなら木造家屋はひとたまりもなく壊れる。日本建築学会の調査では、宮城県の海岸沿いで浸水地域の木造家屋はほぼ全壊していた。

 三陸海岸は「リアス式」と呼び、入り江が複雑に入り組む。狭い場所に進むほど津波は高くなる。駆け上がって到達した最高点を示す「遡上高」は宮古市で37.9メートルにもなった。

 日本近海のプレート境界では近い将来、東海、東南海、南海地震の発生が危惧されている。三重、和歌山、高知県などで大きな津波が来ると予想されている。3つの地震が連動すれば、高さは各地で10メートルを超す。北海道の十勝沖から千島沖にかけての千島海溝でも、巨大津波に見舞われる可能性がある。

 「想定外」の巨大津波に見舞われてしまうと、防波堤などハード面での対策は期待できない。

 関西大の河田教授は「長く揺れたと感じたら、すぐに高台や鉄筋コンクリートのビルに逃げる。避難が何より大事なことを忘れないでほしい」と訴える。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

届かぬ被災地の声、支援阻む「情報断絶」の写し [東日本大震災]

震災1カ月で課題が露呈 16年前の教訓生かせず

2011/4/16 7:00の記事です。
 
 震災から1カ月が過ぎ、政府は「復興構想会議」の設置を決めた。だが被災地の時間は、すべてを飲み込んだ黒い水が引いたあの日から止まったままのように見える。


 震災3週間目あたりから宮城県内の被災地を歩いた。自衛隊などの努力で命をつなぐ主要道が通り、家屋の約8割が流された南三陸町では真新しい電柱が立てられつつある。だが、中心部の志津川地区は見渡す限り何もない。町役場の防災施設は鉄骨がむき出しのまま無残な姿をさらしている。破壊された道路や堤防、横転したクルマ、思い出の品がぐしゃぐしゃにこねられた大量のがれき。暴力的な破壊の爪痕がほぼ手つかずで残る


 酸鼻を極める光景は三陸海岸を中心とする太平洋沿岸の500キロメートルにわたって数千カ所に広がっており、1つだけの風景を切り取ることは意味をなさないように思える。日を追うごとに、人々に勇気と感動を与えるような、あるいは希望の萌芽を伝えるような美談を耳にすることも増えてきた。だが、それも何万分の一、何十万分の一の「点」に過ぎない


 4月15日時点で約2430カ所の避難所に、依然として約13万8000人もの被災者が身を寄せている。5月初旬までに完成する仮設住宅は計画のわずか6%。ライフラインが断絶されたまま暮らす自宅避難者や身内宅に疎開する被災者の数は、行政もメディアもボランティア組織も誰も把握できない。しかも個々の事情は刻一刻と変化している。


 いまだ「面」でとらえきることができない未曽有の事態が横たわる被災地。分かったことと言えば、16年前の教訓がふたたび頭をもたげ始めたということだ。


■人と物が集まる南三陸町最大の避難所


 恵まれている避難所と、そうではないところがある。いつの災害時も、物資が行き届くようになる1カ月を過ぎると、そうした話が聞こえてくる。前者を象徴するのが、南三陸町最大の避難所「総合体育館(ベイサイドアリーナ)」だ。一時は1500人もの被災者がいたが、集団移転や自宅避難が進み、14日時点で約500人と徐々に減っている。


 南三陸町の中心部から北の山間部へクルマで10分ほど走ると、無傷の山あいに巨大施設が見えてくる。訪れたのは4月5日~7日で、700人ほどが寝泊まりしていた。日中は自宅避難者やボランティアなどがひっきりなしに訪れるため、人数はさらに増える。


 250台収容の駐車場は満杯で、奥のグラウンドまでクルマで埋め尽くされている。さらにその奥は自衛隊の車両やヘリコプターの基地となっており、メーン施設の玄関前では連日、全国から参集したボランティアらによる炊き出しが行われていた。


 玄関前にはニュースを映す大型LED(発光ダイオード)モニターを搭載した車両が止まり、夜間は照明車が入り口付近を煌々(こうこう)と照らす。館内も、東北電力の電源車によって20時30分までは明かりがつき、消灯後も非常灯は保たれた。15日午後には施設内の電気が復旧している。


 駐車場の一角にはイスラエル軍が3月29日に設置したプレハブ6棟の大規模な診療所が軒を連ね、エックス線や超音波を使った検査機器など約100点と約50人の軍医・看護師がそろっていた。4月11日に撤収したが、施設は寄贈された。京都府消防局や仙台社会保険病院、宮城県歯科医師会などの医療バスもところ狭しと止まっており、メーン施設内部にも大規模な診療所がある。


 震災当初は、自衛隊による最小限の物資しか届かなかった。だが、道路がつながると徐々に避難者の生活環境は改善された


■ウルトラマンショーで被災者に久しぶりの笑顔


 3月18日には山形県庄内町による豚汁に餅を入れた「つゆ餅」2000人分の炊き出しが始まり、19日にはNTTドコモが移動基地局車によってFOMA回線を復旧させた。21日には、自衛隊が約40人が入れる仮設風呂を設置し、垢(あか)を落とせるようにもなった。


 その頃から1日3食が全員に安定して振る舞われている。例えば4月9日のメニューは朝食がサンドイッチにカップケーキ1個と豆乳いちご。昼食がおにぎりにしゃけフレーク、切り干し大根、りんご。夕食が自衛隊による炊き出しご飯にマカロニサラダ、ほうれん草と人参のゴマ和え、漬け物、味噌汁といった具合だ。


 東北自動車道が全線開通した3月23日の翌週末からは遠方から訪れる人がさらに増えた。4月2日は千葉県松戸市から訪れたグループが根菜のたっぷり入ったけんちんうどん約1000食を提供し、10日には被災地支援のための「ウルトラマン基金」によるショーが開催された。元プロ野球選手の清原和博さんや大相撲の九重親方(元横綱千代の富士)も顔を見せ、握手会やサインボールで被災者を喜ばせた。


 賑わいを見せるベイサイドアリーナ。一方で、震災から1カ月たっても、光のあたらない避難所があった。


■廃墟と化した魚市場や水産加工工場の先に


 沿岸部の住宅密集地や水産加工施設などが壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市。15日現在で死者・不明者は5520人。約1万4000人が市内119の避難所で生活を送っている。そのうちの1つ、石巻市立渡波中学校に設置された避難所は、暗く不自由な日々を余儀なくされていた。


 高速道路の三陸道を下り、石巻市内に入る。沿道の光景はいたって日常だが、石巻駅前に近づくにつれて様変わりする。津波は商店街や飲食店が密集する市街地にまで押し寄せ、駅前商店街の多くの店内ががれきに加えて汚泥やヘドロにまみれていた。


 渋滞を迂回しようと海岸線の道路に回ると、そこは一面の焼け野原。津波が引いた後も重油などに引火して延焼が続いたため、黒焦げた鉄骨や自動車が爆撃を受けたかのように山積みとなっている。海岸線近くは地盤沈下の影響で今でも水が引いていない。


 旧北上川にかかる巨大な橋を渡ると、広い道路の海側に魚市場や水産加工の工場があるエリアが延々と続く。構造物は残っているが、中は流され、腐った水産物が異臭を放っていた。ぐにゃりとへし折れた信号機に、転がる大型のタンク。廃墟と化したエリアの少し先に、取り残されたように渡波中はあった。


■電球4個分のバッテリーで暮らす避難所


 訪れたのは4月6日の夕方。校庭には流されたクルマが無残な姿で転がり、校舎の時計は3時58分で止まっていた。すぐそばは海。津波は校舎の2階部分も打ち抜いた。人が住んでいるとは思えない校舎の3階に、約60人ほどの避難者が暮らしていた。


 印象は「暗い」。10日現在も、自家発電機や電源車はなく、東北大学の高橋英志准教授が石巻市に提供しているバッテリーがあるだけだ。4つの電球まで電線を伸ばし、わずかな明かりを午後5時30分から午後9時まで灯す。それ以上は持たない。石巻市の職員1人のみが支援者として常駐し、1日1回の交代のタイミングで充電されたバッテリーを持ってくる。


 給水車からの水は被災者自身が3階までバケツリレーをして運ぶ。その貴重な水を使って被災者がトイレ掃除や自炊を行う。もちろん、風呂もテレビもない。食料物資は配給されているが、1日2食が続く。10日の夕食は、自炊した味噌汁におにぎりとパン。おかずと呼べるようなものはない。ジャージ姿で泊まり番を務めていた石巻市職員の末永英久氏はこう言った。


 「電池がほしいですね。欲を言えば自家発電機やお湯をためておくポットも。とにかく電気と水道がないのが不便だし、衛生状態が気になる」。交代した別の職員は、複雑な胸中を明かした。「避難所運営も大事だけれど、正直、復興に向けた公共業務を優先させたいというジレンマもある。ボランティアの方に見ていただければ、本当に助かる」


■バラエティー番組を映す液晶テレビ


 じつは渡波中の前を通る国道をわずか1.5キロメートルほど東へ行ったところにある渡波小学校の状況はまったく異なる。ここも津波の被害に襲われたが、約700人が暮らす大規模避難所で、早くから自衛隊やボランティアらによる清掃や炊き出しなどの支援活動が進んだ。4月4日には常駐しているNGO(非政府組織)が子ども向けの「プレイルーム」を設置し、7日はタレントの田中義剛さんらが訪れ、生キャラメル菓子やTシャツなどを被災者に配った。


 渡波中から西に約9キロ、クルマで20分ほどの距離にある避難所、青葉中学校の支援も手厚い。ピーク時は1000人以上、訪れた時は700人弱が体育館や教室で暮らしていた。教職員と、神奈川県などから派遣された職員が避難所運営を切り盛りし、日本看護協会から派遣された3~4人が衛生面や医療面の世話を見ている。校庭には自衛隊の炊き出し車や米軍が設置したコンテナ型のシャワー設備が並び、兵庫県西宮市内の小学生らが贈った約50匹のこいのぼりがたなびいていた。


 青葉中はやや内陸部にあるため、津波の被害は及んでおらず、電気は復旧済みだ。夜でも明るい玄関の下駄箱前には大型の液晶テレビ2台が置かれ、バラエティー番組が映されていた。そのそばには衣料品が山のように置かれ、いつでも自由に選ぶことができる。直前に暗い渡波中を訪れていただけに、そのコントラストが際だって見えた。


 震災翌日に入院中だった夫を停電の影響で亡くし、今は単身で暗い渡波中に身を寄せる73歳の女性に「渡波小や青葉中はもっと恵まれていますよ。移らないんですか」と聞くと、こう答えた。「そうなんですか?知りませんでした。でも、最初に比べれば恵まれた状態。水もご飯も明かりもなかった。今はラジオが聴けて、わーうれしいなって……」


■阪神大震災の教訓生かせず


 こうした小規模な避難所こそ、NGOやNPO(非営利組織)などのボランティアが網の目のように支えているのかと思いきや、そうはなっていない。彼らですら、大規模避難所へと吸い寄せられるように向かう


 「マスコミの報道に偏りがあったため、よく報道された避難所にはボランティア、救援物資が多く集まるなど、避難所間の格差が生じた」――。内閣府が2000年にまとめた「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」の「避難所の運営と管理」という項目に、震災支援の教訓としてこう記されている。そして、参考文献からの引用が続く。


 「テレビ・新聞の各社が毎日のようにやってくるようになった。新宿サリン事件が起きてしばらくは全く来なくなったが、その後も一部の新聞社は毎日のように取材にやってくる。その避難所では大変よい対応をしてくれた。おそらくマスコミ報道を見て、遠方からもボランティアが来たり、義援金が送られてきたりした」。今回の震災も、同じことが起きている。


 ベイサイドアリーナは当初から被害が甚大かつ孤立地域とされ、特に注目を集めた。NHKなどがいち早く到達し、映像を送り始めると各社も続く。今では、テレビ各局の中継車が常駐し、連日、多数の報道陣がつめかけている。ほかにも、岩手県釜石市の釜石高校、陸前高田市の第一中学校、宮城県気仙沼市や女川町の総合体育館といった大規模避難所に集中した。


 「避難所の皆さんは厳しい生活を送っています」。そう報じられると、ボランティア団体や芸能人が支援に入る。訪れた人は「まだまだ継続的な支援が必要」とマスメディアやブログなどを通じて訴える。そこにまた、支援が集中する。一方、渡波中のような目立たない避難所は、気づかれないまま、ますます埋没していく。


 阪神大震災の教訓が指摘するように、同じ論理で救援物資の偏在も生じている。ベイサイドアリーナには早くから、全国から多くの救援物資が届いた。施設で一番大きな体育館(アリーナ)を避難者の就寝場所ではなく、主に物資保管庫として利用している。にもかかわらず、食料から生活用品まで大量の物資がうずたかく積もり、収容能力の限界に達しつつあった。


■流通の血管がつまり、物資が偏在


 大規模避難所は物資を一時保管して、周辺地域に分配する「ハブ」として使われることが多い。ベイサイドアリーナは南三陸町でその機能を果たしている。まだ道が完全に復旧していないなか、大型トラックが町内に45カ所ある全避難所を回って物資を分配するのは非現実的で、効率も悪い。そこで、物資はまず中規模避難所に分けられ、そこからさらに小さな避難所へ“毛細血管”を伝わるように配分されている。だが、4月最初の週末あたりから血管がつまり始めたという


 大型トラックに加えて、小型のトラックやバン、自家用車に支援物資を積んだボランティアが連日、集中した結果、ベイサイドアリーナには搬入待ちの列ができるようになり、1~2時間待ちも珍しくなくなった。物資の搬入搬出や仕分けの作業は、基本的に被災者自身が行っており、各避難所からの要請を受けて、町や自衛隊、ボランティアなどが配送している。


 作業を手伝っている避難者の男性(29)は、こう話す。「集団移転などで手伝う被災者が徐々に減っているため、人手が足りていない。高校を出たばかりで就職先を失った被災者がトラックの誘導をしていて、運転手に責められることもあった」


 震災4週間目に近いある日には、衣類や食料などの支援物資、計20トンを積んだ5台のトラックが搬入を拒まれた。そのため、中規模避難所の歌津中学校へと回ったが、すでにそこも満杯で入らず、結局、近隣にある自治体の倉庫に置かせてもらったという。


■「いつの災害も物資の集積場に溜まり、そこから外に出ない」


 「いつの災害もそう。物資の集積場に溜まり、そこから外に出ない。新潟県中越沖地震の時も、柏崎市役所に物資が集中して、途中から『もう送らないでくれ』と発信した」


 そう語るのは、南三陸町を中心に支援活動を続けている岐阜県議の川上哲也氏(47)だ。3月11日の震災当夜に支援物資を積み、遠く飛騨高山から東北へ出発して以降、片道約1000キロの道のりを5往復した。3月17日には震災後、初めてまとまった量の燃料、灯油3000リットル、軽油1000リットルを南三陸町まで届け、佐藤仁町長から感謝された。


 川上氏は新潟県中越沖地震の際も同じように支援活動をしており、物資が滞留する教訓を知っていた。だからこそ、初期の段階で町役場に「物資は出すことが課題。配送に人的リソースを割きましょう」と提案したが、現場に手が回ることはなかった。


 避難所間の格差、物資の偏在。過去の教訓がふたたび顔をのぞかせているのは、これだけではない。財団法人阪神・淡路大震災記念協会がまとめた「平成11年度 防災関係情報収集・活用調査(阪神・淡路地域)報告書」に、こうある。「物品が役所からたくさん来たが、外でテントを張っている方、全半壊の家に無理やり住んでいる方がいるのに、学校にいる方だけが避難者だという感覚をもってしまったので、その他の方が非常に困っていた」


■トイレが不便、でもぜいたくは言えない自宅避難者


 今回の被害は、ほぼ津波によるものだったため、震源地に近い内陸部や沿岸部でも高台にある住宅の多くは無傷で残った。そうした被災者は、最初は避難所にいたが、徐々に自宅へと戻っている。ただ、家はあっても水道・電気・ガスがなく、ガソリンも不足しているため遠方にも行けず、困窮している自宅避難者はかなり多いと推測されている。


 小学校5年生になる娘を連れ、ベイサイドアリーナまで配給をもらいに来ていた自宅避難を続ける女性は、こう話した。「トイレが一番大変。地域に仮設トイレもあるけれど、夜は真っ暗だし数百メートル歩かないとならないので、怖い。同居するおじいさんが、仮設トイレにたどり着くまでに間に合わなかったこともあった」


 女性が住む地域の各家庭には、行政から小型のソーラー充電式の照明が配られたという。携帯電話の充電もできるようだが、接続するプラグはついていない。「買いに行っても売っていない。携帯は夜はもったいないから切っている」


 ベイサイドアリーナであれば、NTTドコモなど携帯電話各社が充電サービスを提供しており、日中いつでも充電できる。トイレもすぐそばにある。あたたかい炊き出しが出れば、その場で分かり、いただける。それが、内田さんにはできない。でも、声は上げない。「私たちは、家があるだけ幸せなので、ぜいたくは言えないんです」


■大規模避難所への支援が十分というわけではない


 もちろん、ベイサイドアリーナや渡波小、青葉中といった大規模避難所の物資や支援の手が十分というわけではない。継続的な支援が必要だということは自明で、大規模避難所にはそれなりの悩みもある。


 例えばベイサイドアリーナでは、多目的ホールなどからあふれた被災者が施設入り口から伸びるすべての通路に毛布を敷き、高さ45センチメートルの段ボールで間仕切りしただけの環境で過ごしている。関係者がせわしなく脇を通る衆人環視の状況は、ストレスを募らせる要因になる。搬入搬出作業を手伝っている被災者の疲労もピークに達しつつある。


 ただ、末端まで物資がスムーズに流れておらず、支援が行き届かない空白地帯が放置されていることも事実。問題の根源ははっきりとしている。すべての情報が点で散発的に出ており、でとらえた被災地の声が、支援する側にリアルタイムで届いていないことだ。支援する側の情報武装は整っているにもかかわらず……。


■「現地からの情報が予想以上に入ってこない」


 「現地からの情報が予想以上に入ってこない。ボランティア希望者の割に活動の場が少ないという需給ギャップが生じている。これからが本当に一般のボランティアが必要となる段階なのに、なかなか現地のニーズが上がってこず、現地の受け入れ体制も整っていない。今はボランティア意識が高まっているが、そのうちに薄れていくのが怖い」


 こう指摘するのは、被災地支援に関する情報を共有するポータルサイト「助けあいジャパン」を立ち上げた佐藤尚之氏だ。助けあいジャパンは、被災地におけるボランティアのニーズを人手を使って集約・整理する「ボランティア情報ステーション」を都内に開設。これらの情報を全国からあがる支援の手に提供している。ところが、マッチングは思うように進んでいないという。


 物資と自発的にボランティアとして赴く人が「見えている」ところに集中する結果、支援漏れや物資の偏在が生じる。一方で、被災地のニーズが見えないがゆえにさらなる支援を投入できず、問題が解消されないという負のスパイラルが生じている。情報の断絶が、すべてのボトルネックとなっているのだ。


 では、誰が被災地のニーズを的確につかみ、情報発信すればいいのか。残念ながら、マスメディアの報道だけでは不十分だ。あらゆるメディアがくまなく各所から今を伝えようとしている。ただ、より多くの声を拾うという意味で、マスメディアが大規模避難所に集まるのは必然であり、2400カ所の避難所を面でカバーして、リアルタイムにニーズを伝えることなど、到底できようもない。この記事の内容も所詮、いくつかの点を集めたものであり、すでに陳腐化している可能性も高い。


 情報収集と発信を被災地の現場に求めるのも、酷だ。被災地はいまだに「情報弱者」であり、情報武装をする余裕もない。


■「各避難所から連絡が入るのを待っているだけ」


 被災地では、各地の社会福祉協議会が中心となってボランティアセンター(VC)が設置されている。ここが、各避難所や自宅避難者などのニーズを吸い上げ、ボランティアを受け入れる役割を担っている。ところが、社会福祉協議会の情報網やインターネットなどを通じて、ボランティアの募集が全国にかかることはいまだに少ない。


 例えば、南三陸町災害VCのホームページを見ると、4月1日に「募集するボランティアは、4トントラックと運転手さん(1日4~5台)。ガソリン代は町で負担します」という掲示があったきり、更新はなかった。次に情報が出たのは4月6日と15日で、数日前に現地で発行された「かわら版」のPDFが掲載されたのみ。内容は「災害ボランティアセンターって何 ?」といった紹介文や公式情報などが中心で、具体的なニーズに関する情報は乏しい。


 南三陸町災害VCは、ベイサイドアリーナの駐車場の一角に構えたプレハブ小屋とテントを本拠地としている。何をしているのか見に行くと、訪れた個人ボランティアに登録とボランティア保険の加入をしてもらい、仕事があれば呼び出すという作業をしていた。ボランティア登録者数は延べ500人を超えているにもかかわらず、例えば4月9日の活動実績は新規が18人、継続と団体が16人ずつの計50人。作業内容は主に、炊き出しや物資の運搬だった。


 「Youth For 3.11」という学生ボランティア団体の一員として4月2日から1週間、主に南三陸町でのボランティア活動に参加した東京大学大学院の奈良悠子さんは、南三陸町災害VCを通じて、写真を拾い集め泥落としをする「思い出探し」や入浴補助といった作業を手伝った。その経験をもとに、こう指摘する。


 「VCでは、各避難所を回ってニーズを吸い上げるというより、各避難所から連絡が入るのを待っているだけの姿勢のようでした。例えば志津川小学校では、被災者300人に対してボランティアは1人と不足しており、ニーズがないわけではない。家が残る地区では、がれき撤去や老人のご用聞きなど、ボランティアはいくらいても足りません


■身を粉にして働く被災地のスタッフ


 情報武装も進んでいない。南三陸町災害VCには、数台のパソコンがある。それで、かわら版も作り、毎日、掲示している。だが、取材した4月7日時点で、ネットには接続されていなかった。近県の社会福祉協議会から応援に来たという男性スタッフに理由を聞くと、「電力はそんなにない。機材もなく、そんな指示もない」との答えが返ってきた。


 だが、南三陸町災害VCが手を抜いているわけではない。VCは原則、「事前に電話で登録して、募集があった時に来ていただく」としているが、募集がなくとも、自分の判断で現地に赴く一般ボランティアは多い。その日の仕事を何とか探して、彼らを割り当てるだけで手一杯となっている。


 物資の分配も、同じ事情でままならない。南三陸町にある45カ所の避難所への配分は、原則、各避難所をまとめる運営者からの要望を受けて行っている。だが、ある小規模な避難所の運営者は「何があるか分からないのに要望は出せない」と言う。物資が集中するベイサイドアリーナであっても、搬入搬出の記録はノートで行っており、リアルタイムに物資一覧が外部へ公開されているわけではない。南三陸町を中心に支援活動を続ける前出の川上氏は、こう擁護する。


 「町職員はスタッフがかなり亡くなっているし、身内が亡くなった方も大勢いる。そのなかで、集団移転も仮設住宅もやらなければいけない。身を粉にして働いている」。被災者自身も、目の前の仕事に対して必死で働き、日々を生き抜いている。1日の作業が終われば誰もがくたくたになり、また次の日を迎えている。


■「ツイッター? 何ですか、それ」


 要するに、ニーズを掘り起こして精査し、情報を発信するまでの余裕が被災地にはない。それは、普段から情報ツールを使いこなしているボランティアが現地に入ったとしても同じだ。


 ニーズをつかめば、ボランティアはその場で支援活動に入る。ほかを俯瞰して見る暇はない。今、現地に入っているボランティアは、移動手段や燃料、食料を自分で賄う必要があり、活動時間の限りもある。自らの拠点に帰ってから、現地で聞いたニーズを報告しても、その頃には別のボランティアが入り、解決している可能性がある。


 震災直後、首都圏を中心にツイッターなどのソーシャルメディアが活躍を見せたように、支援する側と避難所が、直接ネットを通じてつながることも難しい。避難者には高齢者が多く、若年層であっても「電波が弱く、電池ももったいない。ツイッターの文化も浸透していない」と、ベイサイドアリーナで避難生活を送る前出の男性は話す。


 そうした環境の中で出てくる情報は、不確実であったり、時間経過で事情が変わってしまったりすることも多い。4月3日、あるつぶやきが瞬く間にツイッターを駆け巡った。被災地支援に関するつぶやきを必死に集めていた女性のつぶやきを、ある企業経営者が数十万人のフォロワーに回覧した。内容は、特定の地域が孤立状態にあり物資が足りていない、というものだった。


 そこは高台にあり、津波被害は免れた地域。もしやと思い、3日後の6日に名指しされていた施設を訪れると、ちょうど住民同士で物資を仕分けている最中。現場を仕切っていた60歳代の女性に話を聞くと、意外な返事が返って来た。「ツイッター? 何ですか、それ。物資は2週間ほど前から十分に足りていますよ。困っていること? 特にありません」


■不確実なつぶやきに翻弄


 被災者や避難所からの直接の情報発信に頼るのは、不均衡を助長する危険もある。テレビによく映る避難所に支援が集中するのと同じことがソーシャルメディアでも起きかねない。小規模なある避難所からツイッターやウェブサイトを通じた情報発信を試みようとしている30歳代の男性は、こう言う。


 「ツイッターを見ていると、事実に基づかない善意の勘違いや大げさな表現に、遠い場所の人たちが翻弄されていないかと不安だ。誰かが物資が足りないとつぶやくと、そこに視線が集中する。物資が足りないと言った者勝ちで、奪い合いになってしまわないかと危惧している」


 先に紹介した『阪神・淡路大震災教訓情報資料集』は、地震発生から1カ月目以降の教訓として、「避難所におけるボランティアの活動は有効だった。しかし、避難所運営がボランティアにまかせきりになった避難所では、被災者の自立が遅れる傾向があった」と言及している。避難所からの情報発信をうのみにした支援をしては、こうした課題が再燃してしまう可能性もある。


 中心部が壊滅的な被害を受け、延焼も続いた気仙沼市。その南部に位置する本吉町には、海沿いに小さな集落が点在しており、100人以下が寝泊まりする小規模避難所が多い。そのうちの1つ、浜区多目的集会所を切り盛りする気仙沼中央公民館副館長の及川正男氏(54)は、「この辺は地域性もある。つながりもある。まず自分たちがどう動くか。ただ、支援だけを受けて過ごすのはよくない」と話す。一方で、周辺のある避難所では「へき地は物資が届いていない」と訴える人もいた。


■高まる「情報ボランティア」投入の動き


 結局は、客観的な視点で調査でき、かつ情報発信や共有の能力に長けた外部の人間が被災地に張り付くしか、解決の方法はない。実際に、そうした「情報ボランティア」を投入しようという機運は、徐々に高まりを見せている。助けあいジャパンの佐藤氏はこう語る。


 「情報をこちらから取りに行くしかない。ほかのボランティア団体などと連携し、網の目のように現地に人を貼り付ける体制を模索している。もう待っているわけにはいかない」


 ニーズを待たずして乗り込み、自らニーズを探って活動していく動きも確かに必要だ。だが、それができる自己完結力や資金力がある組織の数も動ける範囲も、限られている。被災地では仮設住宅の用地確保が難航しており、避難所生活の長期化が懸念されている。電気・水道・ガスのインフラ復旧も、見通しが立っていない。一般のボランティアも含めたオールジャパンで立ち向かわなければ、広範囲で長丁場の支援を乗り切ることはできない


 幸い、16年前とは違い、ネットやソーシャルメディアの発達で、支援する側の貢献意識はより高まり、ニーズと支援のマッチングをする情報基盤も整っている。あとは被災地に寄り添い、情報伝達の“ラストワンマイル”を埋めるだけだ。被災地では徐々にではあるが、自立・復興に向けた情報共有のプロジェクトも芽吹きつつある。情報ボランティアは、そうした被災地発のプロジェクトや、VCや行政などの情報武装にも、きっと役に立つ


 「大規模避難所においては、地域全体の物資の過不足や配送状況を管理するシステム構築が急務。運用は行政がすべきだけど、構築は大手IT企業などが手を貸してあげてほしい」。学生ボランティアとして南三陸町で活動した前出の奈良さんがそう言うように、企業による情報支援も必要とされている。


■「迷惑かもしれないと思っても、飛び込んできてほしい


 南三陸町の中心、志津川地区からクルマで30分ほど南に行ったところに、長清水地区という小さな集落がある。震災後、単身赴任先の仙台市から妻と乳児が住む同地区へ戻り、集落の支援活動を続けている及川博道氏(34)は、こう訴える。


 「何とかして1度でいいからかかわってほしい。この景色を共有してほしい。もうこっちはずたぼろなんです。自己完結できる方は、迷惑かもしれないと思っても飛び込んできてほしい。個人的には一軒一軒歩いてニーズを聞いて回りたい。その助っ人をやってくれるだけでもいい」


 震災から早1カ月。されど、まだ1カ月。被災地支援の前に立ちはだかる情報断絶。面でとらえられないこの現状を放置して、早期の復興はない。

(井上理)

# Copyright © 2011 Nikkei Inc. All rights reserved.


 大変難しい局面にきていると思います。この記事を見て、初めてわかることが多く、大変素晴らしい取材と取材に基づいた記事だと思います。

 しかしながら、企業レベルで組織的な行動とトータルな情報管理をボランティアに求めるということ。

 やりたいと思う。同感と思いながら、私のレベルでは、仕事をしながらではできない状況。

 無念です。どうかこの記事を見て、賛同していただける余裕のある企業家の方々が立ち上がって頂きたい。

 こういう状況について、県はどう考えているのか、自在に余っている物資を、臨機応変に移動することが可能なのか?といったことも含めて自己完結型を実施することが必要なんだろうなと!


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

電力不足、こんな節電で協力 何でもランキング [東日本大震災]

値上げ容認は1割弱

2011/4/16 4:00の記事です。


 今夏、東京電力管内で予想される電力供給不足は最大1500万キロワット。大口需要家が25%削減を達成しても、それで減らせるのは400万キロワット強にすぎず、残りを家庭や小口需要家が減らさないと追いつかない計算だ。ここは「暮らしを変える」というぐらいの心づもりが必要かもしれない。

 「これなら自分も協力したい」という節電策をネット調査で聞いたところ(複数回答)、1位には「名所のライトアップはがまんする」、2位には「自宅の冷房設定は27度以上」が僅差でランキングされた。

96958A88889DE0E4EAE2E3E5E7E2E3E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXBZO2679017015042011000001-PB1-21.jpg

 自宅の冷房設定温度で一番多かったのが28度。エアコンは全家庭の年間電力消費量の25%を占めるだけに、この節電効果は大きい。設定温度は、5位の店舗、8位の電車内、13位のオフィスでも「28度でいい」という人が5割を占めた。

 オフィスの冷房を左右するのが、10位に入ったクールビズ。男性のカジュアルウエアをどこまで認めるかについて聞いたところ、「ポロシャツでいい」という人は67%、Tシャツは21%、サンダルは22%だった。

 3位には「自宅の電球をできるだけ多くLEDにする」が入った。通常の白熱電球に比べ消費電力は約7分の1だが、価格は1つ2000円程度から。節電のためには一時的な出費もいとわぬ姿勢がうかがえる。とはいえ「電気料金を上げてもいい」という人は10%にも満たなかった。

 上位には、街中の照明に関するものも。4位のネオンサインの削減について、どれくらい減らしてもいいかを聞くと5割以上というのが多かったのに対し、商品を売る店舗については4割以下という声が多い。「商品の説明がちゃんと読める程度」(20代女性)という線は守る必要がある。

96958A88889DE0E4EAE2E3E5E7E2E3E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXBZO2679047015042011000001-PN1-21.jpg

 調査は、東京電力・東北電力管内に住む人たちだけでなく、それ以外の地域の住民にも同じ質問をしたが、両者の結果に大きな差はなかった。


以外にアンケート結果が常識的という感想です。それだけの覚悟で、今年以降の夏をしばらくは、乗り越えていかなければならないという結果ではないでしょうか?

 

 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ディズニーランド、7万人の安全守ったアルバイト(日経Web)の写し [東日本大震災]

オリエンタルランド、大震災企業はどう動いた

2011/4/15 22:07の記事です。

■浦安市と独自に備え

 3月11日。TDRを運営するオリエンタルランドで危機管理を担当する副社長、砂山起一(63)は出張中の米ロサンゼルスで一報を聞いた。状況把握でかけた国際電話の通話先は「ECC(エマージェンシー・コントロール・センター)」と呼ぶ危機管理チームだ。

 技術や運営、セキュリティーなど各部から集まったメンバーがオペレーション室に集まり、社長の上西京一郎(53)が本部長席に座った。アトラクションやショップ、レストランの数は2パークで230近く。これを7つのエリアに分け、緊急電話や無線を使って細かな指示を飛ばした。

 海外のパークと統一の震災マニュアルはあるが、地震国ゆえの備えに力を入れてきた。それが2008年策定の「地震対策基本計画」だ。国による首都直下型地震の被害想定の見直しを受け、浦安市の協力で作った特別マニュアルを今回初めて発動。ECCは直ちに「地震対策統括本部」へと姿を変えた。隣接の駐車場で液状化は起きたが、パーク内の被害は軽微でけが人もなかった

96958A9C93819696E3E7E2EA988DE3E7E2E6E0E2E3E38698E0E2E2E2-DSXBZO2681991015042011I00002-PN1-3.jpg

■臨機応変に対応も

 「ゲストと従業員の安全を最優先に」。上西の意を受けた統括本部は来場者の屋外避難を終えた夕刻以降、想定外の対応を相次ぎ迫られる。

 突然の雨と東京湾からの寒風。震えて広場に座り込む親子連れや高齢者らに、ほどなく売り物のレインコートを配った。その時点の滞在者は約5万5000人。数は到底、足りない。ビニールシートや大型のポリ袋、タオル、風よけの段ボールなど当座をしのぐ品々をかき集めた。

 翌日まで続いたJRの運休も大きな誤算。アスファルト道路や歩道の陥没などパーク外の液状化被害を考えれば、とどまっていた方が安全だが、その時点では知るよしもない。来場者のいら立ちの声に押し切られる形でパークからの退出を認めざるを得なかった

 誘導を終えたのは午後11時すぎ。園内に残った約2万人が一夜を明かす。備蓄の非常食で十分賄える。ガスが復旧した12日未明には温かいスープやホットドッグを全員に配った

 30分おきに外周道路の状況を歩いて確認した社員。砂山の指示で駐車場の補修工事の手配に奔走した社員……。来場者に事故があってはならない。統括本部の下で出番の6000~8000人が夜を徹して動いた。その中で、砂山は笑顔と丁寧なあいさつで接したキャストの頑張りをいの一番に挙げる。

 何百人もが夜を過ごした園内のある施設。シャンデリアの下に立ったキャストが「僕はシャンデリアの妖精。何が起きても皆さんを守ります」と言って笑いを誘った。余震によるシャンデリアの落下を恐れて配置していたキャストが、機転を利かし、近づけないようにしたのだ。

 開園前や閉園後の時間を使った防災訓練は大小合わせ全体で年間160回余。社員並みのプロ意識が自然と働く。

 砂山が帰国した3月14日から、社内は営業再開に動き出す。液状化で土砂が積もった駐車場も大事には至らなかった。

 4月1日の入社式。砂山は21人の正社員にこう訓示した。「マニュアル企業のイメージが強いが、応用の利く集団になってほしい」


素晴らしいですね。JR東日本は、駅構内から乗客を追い出してましたね。この機転がきくことまでをも教育している。それもキャストと呼ばれるアルバイトにまで。オリエンタルランドは、このような社風をも含めて、お客様とキャストの安全を第一に考えている素晴らしい企業だと思います。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

夏の電力供給5200万キロワット 東電、計画を上方修正(日経Web)の写し [東日本大震災]

火力復旧で なお300万~800万キロワット不足

2011/4/16 2:01 の記事です。

 東京電力は15日、夏の電力需要のピークの7月末に現状から3割増の5200万キロワットの電力供給力を確保する見通しがついたと発表した。従来は4650万キロワットとしていたが、ガスタービン発電設備の新設や震災で停止した火力発電設備の復旧などで550万キロワット分上方修正した。夏のピーク需要は5500万~6000万キロワットとみられる。なお300万~800万キロワット不足しており、東電は一段の供給力積み上げを目指す。

96958A9C93819696E3E7E2989B8DE3E7E2E6E0E2E3E39C9CEAE2E2E2-DSXBZO2683194015042011I00001-PB1-10.jpg


 
 この見通しについて東電は枝野幸男官房長官にも報告した。

 現状の供給力は4000万キロワット。緊急措置として4月末以降、千葉県内の姉崎、袖ケ浦、千葉の3火力発電所の施設内でガスタービンなどの発電設備を新設し計120万キロワット上積みする。

 停止中の茨城県と福島県の火力発電所5基の復旧で計110万キロワットを確保する。また夜間の電力を使って水をくみ上げ、昼間に発電する揚水発電で400万キロワットを増やし、昼のピーク時の電力供給能力を高める。

 ただ8月には柏崎刈羽原子力発電所(新潟県)の1号機と7号機が定期点検で停止するため、8月末の供給力は5070万キロワットに落ち込む。東電は引き続き節電を求める一方で「供給力のさらなる上積みを図る」(藤本孝副社長)としている。

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

検査中の原発16基、運転再開メド立たず 電力各社(日経Web)の写し [東日本大震災]

地元理解へ安全対策急ぐ
2011/4/15 16:50の記事です。

 東京電力の福島第1原子力発電所の事故により、各電力会社が定期検査のため停止した原発全16基の運転再開にめどが立っていない。各社は海江田万里経済産業相の求めに応じて福島第1原発事故を踏まえた安全対策を反映させた保安規定変更の認可申請を提出し、運転再開を目指している。ただ、経産相の認可が下りたとしても、福島第1原発の事故が収束していないだけに、運転再開には地元の理解を得る必要がある。

96958A9C93819595E3E6E2E29B8DE3E7E2E6E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2-DSXBZO2678712015042011I00001-PN1-15.jpg


 
 原発は電気事業法でほぼ13カ月おきに、原発を停止して機器を検査することになっている。全国で定期検査のため停止している16基(福島第1を除く)の原発のうち、発電や運転再開を延期しているのは北海道電力の泊原発3号機や関西電力の美浜原発1号機、高浜原発1号機、九州電力の玄海原発2、3号機など8基ある。

 通常、定期検査で停止した原発は地元の了解なしに発電を再開して、運転再開に向けた原子力安全・保安院の最終試験を受ける段取りになっている。

 しかし、今回は福島第1原発の事故で地元の不安が払拭できていないと判断し、発電の再開や運転再開のための最終試験を延期している。

 例えば、九電は東日本大震災後の3月18日に段上守副社長が佐賀県庁に古川康知事を訪ね、津波の影響や玄海原発と川内原発の安全対策を説明。記者団に対して「玄海原発3号機の発電再開は予定通り進めたい」と発言した。しかし24日、3月下旬に予定していた玄海原発2号機と4月上旬に予定していた同3号機の運転再開をそれぞれ延期すると方針を転換した。

 東日本大震災を受け、内閣府の原子力安全委員会は津波対策を含めた原子炉の耐震設計審査指針を見直すことになるが、見直しの時期についてはメドが立っていない。このため、3月30日、経産相は津波などで全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなった場合の安全対策をまとめ、原発の保安に関する基本事項を定めた保安規定に追加し、規定変更の認可申請をするよう各電力会社に求めた。

 各社は電源車の配備や非常用ディーゼル発電機の代替電源の配備、全電源喪失時の対応訓練などの安全対策をまとめ、4月8日までに保安規定の変更認可を経産相に申請した。

 経産省原子力安全・保安院は4月末をメドに各社の申請を認可するかどうか決める方針。九電の真部利応社長は3月24日の記者会見では「運転見合わせが長引けば、計画停電の可能性も否定できない」と説明していたが、国が原発の安全対策を示したことを受け、30日には「5月中に営業運転再開できるように期待したい」と語った。

 4月10日の統一地方選では北海道、福井、島根、佐賀の4道県の知事選で原発問題が争点の1つになったが、各道県とも十分な安全対策を取った上での原発との共存を訴える現職知事が当選した。

 ただ、福島第1原発事故は収束しておらず、地元では原発の発電再開に対し不安の声があるのも事実。九電は4月12日に全電源喪失時の対応訓練などを報道各社に公開。安全対策に盤石を期していることを地元にもアピールした。

 通常、定期検査で停止した原発を再び稼働する際、法的に地元の了解を得る必要はないが、今回は異例の事態。九電や関電は「地元に安全対策を十分に説明し、了解を得た上で原発の運転再開を目指したい」と説明する。

 定期検査で停止した原発の運転再開を目指す動きは出てきた。だが、九電の川内原発3号機の増設計画で鹿児島県の伊藤祐一郎知事が「増設の手続きを当分の間、保留する」と発言したように原発の新・増設計画には逆風が吹いている。


 国民に対して、正確な情報公開が求められている。過去の各電力会社の国民に対する対応が、現在の疑心暗鬼につながっている。事業主としての姿勢をあらためて示してほしいです。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

最前線の自衛隊10万人、何をどこまで 想定外の仕事も(日経Web)の写し [東日本大震災]

救助や復旧、原発で 震災1カ月


2011/4/14付の記事です。


 東日本大震災直後から被災地に入り、人命救助から被災者の生活支援インフラ復旧まで多岐にわたる活動で存在感を高めたのが自衛隊だ。東京電力福島第1原子力発電所事故でも最前線に立つ。その数は総勢10万人を超える。震災発生から1カ月で、自衛隊は何を、どこまでしたのか。

96958A96889DE0E4E5E0E2E2E4E2E3E6E2E6E0E2E3E39C9C9AE2E2E2-DSXDZO2672009014042011NNH000-PB1-13.jpg

 3月11日午後3時1分。東日本を襲った大地震発生から15分後、陸上自衛隊の霞目駐屯地(仙台市)から、映像伝送機能をもつヘリコプターUH1が1機飛び立った。被災状況を確認するため、その後も次々と各基地からヘリや戦闘機が離陸した。大津波に襲われ、火の海となった宮城県気仙沼市の様子など、自衛隊機が撮影した光景はテレビ画面にも流れた。

 菅直人首相の指示を受けた北沢俊美防衛相は午後6時に「大規模震災災害派遣命令」を出した。14日には陸自東北方面総監の君塚栄治陸将をトップに、自衛隊創設以来で初となる「統合任務部隊」を編成。1人の現場指揮官が被災地に派遣された陸海空3自衛隊を統率する枠組みを整えた。

 派遣規模は19日に全隊員の4割に当たる10万人に達した。阪神大震災は最大で1万9千人。支援活動は101日間、延べ225万人に上ったが、「阪神大震災を超える長期戦を覚悟している」(自衛隊幹部)。即応予備自衛官も初招集するなど全国各地の部隊をかき集めて10万人態勢を敷き、最大で艦艇57隻、航空機543機も出動させた。

 「食事といえば乾パンと缶詰だけ」「風呂にもなかなか入れない」。現場で支援活動に当たる自衛隊員も被災者と同様、過酷な毎日を送る。宮城県石巻市など津波で水没した地域では隊員が腰まで水につかり、行方不明者の捜索に当たる。時にはわが子と同じくらいの年の子どもの遺体を抱きかかえることもあるといい、現地を視察した火箱芳文陸上幕僚長は「悲しい時は思い切り泣け」と隊員を励まして回った。

 当初は不明者の捜索救難や食料など物資輸送が主だった支援活動も、次第に給食や入浴などの生活支援、道路のがれき除去など復旧・復興支援に軸足を移しつつある。

 阪神大震災後に災害対策基本法が改正され、警察官が近くにいない場合でも、自衛隊員が災害時に緊急車両の通行を確保するため放置自動車を撤去できるようになった。応急的な道路復旧は290キロメートル超(13日時点)に及ぶ。遺体の収容、搬送はそれぞれ約8500体、約1千体を数えるが、これは本来、「自衛隊法が主たる業務として想定していない」(防衛省幹部)仕事だという。

 自衛隊は原発事故への対応でも主力だ。大地震が発生した3月11日の午後7時半に、自衛隊に初の「原子力災害派遣命令」が出た。17日には陸自のヘリコプターが地震で損壊した福島第1原発3号機に上空から海水を投下。決死の作戦は使用済み核燃料プールを満たすのが狙いだったが、上空の放射線量は強く、自衛隊も一度はヘリ放水をためらったという。それでも安全性を確認後、実行した。

 自衛隊法に基づき防衛省が2007年に策定した「防災業務計画」には、原発事故の際、自衛隊は周辺住民の避難誘導や放射性物質の除染活動などに当たる明記している。今回の事故後、防衛省は陸自中央即応集団に所属する中央特殊武器防護隊などを現場に派遣した。福島第1原発の半径20キロ~30キロメートルの屋内退避指示が出ている地域での戸別訪問や原子炉建屋の温度測定も実施しているが、これらは計画に含まれていない任務との見方もある。


 問題点も出てきた。今回の震災では、津波が広範囲に押し寄せ、冠水したままの地域がいまだ存在し、がれきの山との格闘も続く。捜索が難航を極めるなか、約1万5千人の行方が依然分からず、生活・復興支援に大々的に乗り出せない。

 政府は被災地で支援に当たる自衛隊員の「災害派遣等手当」などを増額する方針だ。北沢防衛相は「行方不明者の捜索の長期化、復興への取り組みの重要性を踏まえ、政府全体で新たな枠組みを構築することが必要だ」と主張。自衛隊の本来の防衛任務を考慮し、初動から復興まで災害での役割分担を明確にするよう政府内で提起している。


「感謝」というほかに言葉が見いだせない活動の内容。自衛隊が参加していなければ、何も進まなかったと思います。活動の中での待遇、環境面で、少しでも、自衛隊員が気持ちよく、活動できる状況を整備してもらいたい。


nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

西から東へ建機1000台 復興への道、現場が先導(日経Web)の写し [東日本大震災]

東日本大震災 立ち向かう企業(上)

2011/4/7 11:20の記事です。(記事が前後しました。)

 ブルドーザーや油圧ショベルなど建設機械約1000台の大移動が始まった。目指すのは東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島、茨城の4県。コマツが震災直後から関西で中古品をかき集め、幹線道路の開通に備えていた。

利益より支援

 建機は自治体に貸し出され、がれきの撤去や道路整備にフル稼働する。燃料の軽油や輸送用のガソリンを確保するためコマツタンクローリー車も動員。確実に作業ができる環境づくりを全力で支える。

 収益が見込める仕事ではない。社長の野路国夫(64)は「こういうときはもうかる、もうからないじゃない。支援は売り上げや利益に優先する」と言い切る。

 従業員、顧客、株主、社会……。様々な利害関係者が企業を取り巻く。何を優先するか。危機の中、決めるのは本社とは限らない。

 3月15日朝、緊急物資が集まる岩手県宮古市の公共施設に1台のトラックが横付けされた。「運ばせてください」。ヤマト運輸の配達員、太田裕治(48)は市の職員に頭を下げた。

 震災で宅配便業務は止まった。聞こえてくるのは物資が避難所に行き届かないという声。職員がワゴン車で運んでいたが、プロの目からは「同じ所に重複して持っていくなど改善点が多かった」。同僚と「手伝おう」と話がまとまったものの本社と連絡が取れない。見切り発車を決めた。

 宅配便の配達先だった顔見知りに避難所で出会うと「生きてましたか。良かった」と抱き合う。太田の両親は無事だったが、その自宅は津波で流された。外から届く物資が「孤立させない」というメッセージになると太田は信じる。

 現場の動きを本社は追認した。トラック200台と人員500人を送り、取り組みをほかの被災地に拡大。料金をどうするかは「これから相談する」。細部を詰める前に走り出した。

 3月24日夕、日本コカ・コーラ政策渉外グループ部長の大能弘子(53)は農林水産省幹部に電話で訴えていた。「消費者に不安を感じさせたくないんです

 震災とその後の放射線問題でミネラルウオーターの品薄が続く。同社主力の山梨県の工場は計画停電の影響で量の確保が難しい。輸入品は原産国や殺菌の有無などを日本語表記する規制があり、ラベルの印刷が間に合わない。

 大能の熱意は農水省、消費者庁の担当者による協議に発展。業界団体を通さない異例の「現場陳情」は翌日、表示規制の一時緩和として実を結んだ。同社は韓国から100万ケースを緊急輸入。ハングル表記の水が間もなく店頭に並ぶ。

人的資本に強み

 

 「しっかり訓練・教育され、勤勉で献身的な労働力があった」。米シカゴ大教授のゲーリー・ベッカー(80)は日本の戦後復興の背景に卓越した「人的資本」の存在を見た。その厚みは今も企業の現場に根付き、被災工場を動かす。

 3月29日、福島県相馬市の郊外でIHIの航空機エンジン部品工場が操業を一部再開した。従業員1567人全員の安否を本社が確認したのは震災翌日の12日朝。この日深夜に現地入りした支援部隊は照明が床に散乱し、壁に亀裂が入った惨状に言葉を失った。

 米ボーイング商用機部門トップのジム・アルボー(60)は米テレビ局の取材で部品供給停止の長期化に懸念を表明。相馬工場が世界の航空機生産の一翼を担ってきたとはいえ、復旧に手間取れば取引を見直される恐れは否定できない。

 バス会社に頼み込み、都内の工場と相馬を結ぶシャトル便を開設。食料や非常用電源、工具類そして人員を毎日送り込んだ。社長の釜和明(62)は「逆境に耐えるエネルギーが現場にあった」と指摘する。

 復旧状況の発信に航空機各社から「できる限りの手助けをする」と返事が届く。現場のスピードが世界を驚かせ、「日本外し」を思いとどまらせた。震災があぶり出した日本企業の強さ一つだ。(敬称略)

 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

福島原発、最悪のレベル7(日経Web)の写し [東日本大震災]

放射性物質止まらず チェルノブイリ級に

2011/4/12付の記事です。

経済産業省の原子力安全・保安院と国の原子力安全委員会は12日、東京電力福島第1原子力発電所の事故を原発事故の深刻度を示す国際評価「国際原子力事象評価尺度(INES)」で最悪の「レベル7」へ2段階引き上げたと発表した。レベル7は、過去に旧ソ連で1986年に起き、史上最悪といわれるチェルノブイリ原発事故しかない。東日本大震災で原発を安全に止められず、1カ月たっても復旧に手間取っていること、事故の重大さを際立たせている。

96958A9693819595E3E0E2E2E08DE3E0E2E6E0E2E3E39F9FE2E2E2E2-DSXDZO2660159012042011MM0000-PB1-6.jpg

 評価尺度は原子力施設の損傷や外部に漏れ出た放射性物質の程度、被曝(ひばく)被害の大きさなどをもとに決まる。

 保安院はこれまで福島第1原発1~3号機の事故をレベル5(所外へのリスクを伴う事故)と暫定評価していた。

 安全委と保安院は福島第1原発1~3号機から大気中に放出された放射性物質の量についてそれぞれ推計した。放射性ヨウ素131換算で、安全委は大気中の観測結果から逆算して63万テラ(テラは1兆)ベクレル、保安院は原子炉の状態から37万テラベクレルと推計した。特に2号機で圧力抑制室の損傷が起きた3月15~16日に大量放出されたようだ。

 レベル7は放出量が数万テラベクレル以上とされており、これを1桁上回ることなどがレベルの引き上げにつながった。

 史上最悪とされるチェルノブイリ原発事故では520万テラベクレルとされ、同じレベル7でも放出量は約1割であると保安院は説明している。ただ、推計量はいずれも大気中への放出量だ。海水への漏出なども加えるとさらに放出量は上がる可能性がある。

 国際評価尺度は、原発事故の深刻度を0~7の8段階に設定。過去の原発事故では、レベル5に米で79年に起きたスリーマイル島原発事故がある。99年のJCO東海事業所の臨界事故はレベル4だった。

 福島第1原発は事故発生から1カ月が過ぎた12日現在も原子炉の安定停止の見通しが立たない状況。12日午前には福島第1原発の放射線量測定建屋で発煙があり、消火した。低レベル汚染水の排水も遅れており、2号機などにある高濃度の放射性物質を含む汚染水の移送作業は進んでいない。


ついにというかとうとうというべきか。最悪の状況であることにかわりない。現地に携わっている方々の努力が続いている状況にもかかわらずである。原発の収束が進まない限り、余震が続いている状況下で不安定な精神状況は、治まらないし、すっきりしない。収束への道のりは、現時点で、未知の世界に感じる。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

夏の25%節電、猛暑の昨年ピークを基準に(日経Web)の写し [東日本大震災]

経産省方針、工場の新・増設に「みなし」加算

2011/4/12 19:14の記事です。

 経済産業省は12日、今夏に実施する電力需給対策で、瞬間最大使用電力を25%程度制限する規制について、原則として猛暑だった昨夏ピーク時の実績を基準にする方針を明らかにした。工場新設などで単純比較できない場合は、「みなし」の数値を基準にする方向。経産省は4月末までに制度の細部を詰め、産業界が自主行動計画をまとめる環境を整える。

96958A9C93819481E3E0E2E0848DE3E0E2E6E0E2E3E39797E3E2E2E2-DSXBZO2662391012042011I00001-PB1-6.jpg

 経産省が同日開いた製造業など業界団体向け説明会で、こうした方針を説明した。資源エネルギー庁の細野哲弘長官が「今夏の計画停電を避けるのが、最大にして唯一の狙い」と対策の内容を説明。使用電力の制限では「原則として前年が基準。不合理があれば個別に対応する」と明言した。

 瞬間最大使用電力規制の基準を昨年夏のピーク時実績とするのは、政府が今夏に見込む電力需給ギャップに水準をそろえたためだ。政府は今夏の最大需要を昨年並みの6000万キロワットとしており、確実に供給できる4500万キロワットとの差25%を使用制限の幅にする。

 検討段階では、削減の基準を瞬間最大使用電力の平年実績とする案もあった。猛暑の影響で近年でもピークが高かった昨夏が基準になったことで、企業にとって節電へのハードルが若干、緩和されることになる。

 企業によっては工場を新設したり設備を増強したりした結果、昨年と前提条件が異なるケースもある。この場合は設備が増えた部分に相当する使用電力を「みなし」で加算する方向だ。

 例えば瞬間最大使用電力が1000キロワットの設備が昨夏段階で稼働していた工場を持つ企業で、今年1月にほぼ同じ大きさの設備を増設した場合は、合計2000キロワットが今夏の使用電力規制の基準になるという格好だ。

 説明会には業界団体などから約530人が出席し、質問や提案が相次いだ。日本自動車工業会は「業界内で輪番操業を検討したが、部品メーカーが休めなくなる」と指摘した上で、業種単位での輪番操業を参加者に提案した。

 商業やオフィス用のビルでは所有者に瞬間最大使用電力の制限がかかる一方で、実際に電気を使うテナントには義務がないケースが出てくる場合がある。エネ庁の担当者は「難しい問題。規制をどう共有するか省庁を超えて取り組んでいきたい」と説明するにとどめた。

 経産省は瞬間最大使用電力の削減幅や複数企業での対応方法など細部の詰めを急ぎ、4月末に今夏の電力需給対策を最終的にとりまとめる。企業は経産省の作業と並行して、輪番操業の実施方法など自主行動計画の策定に向けた調整を進める。


計画停電なしで臨む今年の夏。この25%削減は、かなり厳しい数字。猛暑にならないことをまず、祈りたい。そして、個人が節電にしっかり励む。一番最悪の計画倒れだけは、絶対避けなければならない。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | 次の10件 東日本大震災 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。