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最前線の自衛隊10万人、何をどこまで 想定外の仕事も(日経Web)の写し [東日本大震災]

救助や復旧、原発で 震災1カ月


2011/4/14付の記事です。


 東日本大震災直後から被災地に入り、人命救助から被災者の生活支援インフラ復旧まで多岐にわたる活動で存在感を高めたのが自衛隊だ。東京電力福島第1原子力発電所事故でも最前線に立つ。その数は総勢10万人を超える。震災発生から1カ月で、自衛隊は何を、どこまでしたのか。

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 3月11日午後3時1分。東日本を襲った大地震発生から15分後、陸上自衛隊の霞目駐屯地(仙台市)から、映像伝送機能をもつヘリコプターUH1が1機飛び立った。被災状況を確認するため、その後も次々と各基地からヘリや戦闘機が離陸した。大津波に襲われ、火の海となった宮城県気仙沼市の様子など、自衛隊機が撮影した光景はテレビ画面にも流れた。

 菅直人首相の指示を受けた北沢俊美防衛相は午後6時に「大規模震災災害派遣命令」を出した。14日には陸自東北方面総監の君塚栄治陸将をトップに、自衛隊創設以来で初となる「統合任務部隊」を編成。1人の現場指揮官が被災地に派遣された陸海空3自衛隊を統率する枠組みを整えた。

 派遣規模は19日に全隊員の4割に当たる10万人に達した。阪神大震災は最大で1万9千人。支援活動は101日間、延べ225万人に上ったが、「阪神大震災を超える長期戦を覚悟している」(自衛隊幹部)。即応予備自衛官も初招集するなど全国各地の部隊をかき集めて10万人態勢を敷き、最大で艦艇57隻、航空機543機も出動させた。

 「食事といえば乾パンと缶詰だけ」「風呂にもなかなか入れない」。現場で支援活動に当たる自衛隊員も被災者と同様、過酷な毎日を送る。宮城県石巻市など津波で水没した地域では隊員が腰まで水につかり、行方不明者の捜索に当たる。時にはわが子と同じくらいの年の子どもの遺体を抱きかかえることもあるといい、現地を視察した火箱芳文陸上幕僚長は「悲しい時は思い切り泣け」と隊員を励まして回った。

 当初は不明者の捜索救難や食料など物資輸送が主だった支援活動も、次第に給食や入浴などの生活支援、道路のがれき除去など復旧・復興支援に軸足を移しつつある。

 阪神大震災後に災害対策基本法が改正され、警察官が近くにいない場合でも、自衛隊員が災害時に緊急車両の通行を確保するため放置自動車を撤去できるようになった。応急的な道路復旧は290キロメートル超(13日時点)に及ぶ。遺体の収容、搬送はそれぞれ約8500体、約1千体を数えるが、これは本来、「自衛隊法が主たる業務として想定していない」(防衛省幹部)仕事だという。

 自衛隊は原発事故への対応でも主力だ。大地震が発生した3月11日の午後7時半に、自衛隊に初の「原子力災害派遣命令」が出た。17日には陸自のヘリコプターが地震で損壊した福島第1原発3号機に上空から海水を投下。決死の作戦は使用済み核燃料プールを満たすのが狙いだったが、上空の放射線量は強く、自衛隊も一度はヘリ放水をためらったという。それでも安全性を確認後、実行した。

 自衛隊法に基づき防衛省が2007年に策定した「防災業務計画」には、原発事故の際、自衛隊は周辺住民の避難誘導や放射性物質の除染活動などに当たる明記している。今回の事故後、防衛省は陸自中央即応集団に所属する中央特殊武器防護隊などを現場に派遣した。福島第1原発の半径20キロ~30キロメートルの屋内退避指示が出ている地域での戸別訪問や原子炉建屋の温度測定も実施しているが、これらは計画に含まれていない任務との見方もある。


 問題点も出てきた。今回の震災では、津波が広範囲に押し寄せ、冠水したままの地域がいまだ存在し、がれきの山との格闘も続く。捜索が難航を極めるなか、約1万5千人の行方が依然分からず、生活・復興支援に大々的に乗り出せない。

 政府は被災地で支援に当たる自衛隊員の「災害派遣等手当」などを増額する方針だ。北沢防衛相は「行方不明者の捜索の長期化、復興への取り組みの重要性を踏まえ、政府全体で新たな枠組みを構築することが必要だ」と主張。自衛隊の本来の防衛任務を考慮し、初動から復興まで災害での役割分担を明確にするよう政府内で提起している。


「感謝」というほかに言葉が見いだせない活動の内容。自衛隊が参加していなければ、何も進まなかったと思います。活動の中での待遇、環境面で、少しでも、自衛隊員が気持ちよく、活動できる状況を整備してもらいたい。


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